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ミラクルな人生@世界
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K-Ci & JojoのAll my life☆

最初はそこまでいいとは思わなかったけど、聞けば聞くほどはまってゆく・・・自分と重ねあわすからですかね。

サビの

All my life I prayed for someone like you~

ってところもいいんだけど、歌詞的には

When you smile my face

always seem to glow

you turn my life around

you pick me up

when I was down

And I hope that you feel the same way too...

が一番じ~んってくるなぁ。

はまりぶりにはびっくりすると思うよ。フルートで吹きたいから楽譜を手にいれた。そんでもって編曲バージョンのAll my life(DJ Yuri 笑) をi-tuneで手にいれた。同時にOn the wings of loveっていう曲にもはまってるけど、All my life が断然1位かな。

私、結構音楽に関しては雑食だけど、結局聞いていて安心する音楽はこういう系。

久々に熱く語ってしましました・・・

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♪~

秋はおいしいものが多くていいねぇ・・・

巨峰、まつたけ、さんま、くり、さつまいもは早々クリアしましたよっ

今日はね、梨買っちゃった。あ、あと茄子も!(あれ?茄子って秋だっけ)

ここでポイントなのがいかに太らずに秋の宝を楽しむかだ。

「太ったね」と決して言わせず、むしろ体型キーピングできてることを不思議がらせるには・・・・

やっぱこれしかないっしょ。

ペルセウスは私が中学校1年のときに我が家にやってきたビーグル犬♂。

っていうことは13年くらい前の話。

なんでペルセウスって名前がついたかというと…ある夏に家族揃って庭でペルセウス流星群を見たことがあって。流星見ると願い事叶うっていうじゃない?流星はあっという間に消えてしまうけど、うちにはペルセウスがいたからね(笑)ペルセウスは正式名で、いつもはペルって呼んでた。ぺ~るちゃん、とかぺる~っってね。

その名に引けをとることなく、本当に頭が良くて、忠実で、格好良くて、愛らしく、後に我が家に幸せをいっぱいもたらしてくれた。家族だった。

反面、頑固で、食い意地がはっていて、甘えん坊で、寂しがりや。特に、家族ということに関してはかなり敏感だった。自分が仲間外れにされてると気づくと必ず訴える。その訴え方はときどきしゃべってるんじゃないか?って間違うほど。「ね、ね、ね、僕は??僕??」って。そこでペルの話が中心になると、すごく満足した顔になる。(笑)本当、笑った顔になるんだもん。

家族が転勤や進学でばらばらになって私なんか特にペルに会うのは1年に1度になってしまってても、会えば素直に喜んでくれた。窓の外をそっと覗いてみると、彼の澄んだ瞳とばっちし合う。合うとクゥ~ンと何度も私が相手してくれるまで鳴きながら訴える。しばらくすると飽きられるんだけど・・・。憎めない。

そんなのがずっとずっと続くといいなって思ってた。

けど心の隅でいつかはお別れするときが来ると思ってた。見ないふりしてきたけど。

あんなにいっぱい一緒に鬼ごっこしたのに、走れなくなって・・・あんなにいっぱい食べてたのに、残すようになって・・・あんなに美形だったのに、がりがりに痩せてしまって。もう次親もと帰ったら会えないかもしれないことは覚悟していた。

でもやっぱりその事実を聞かされると、一番最初に感じたのが「悔いと怒り」。

自分は何もしてやることができなかった。元気なうちにどうしてもっとぺるにやさしくできなかったのだろう??自分に対する苛立ちが現れた。

次に感じたのが「深い悲しみ」。

泣くまいと思っても勝手に涙がでてくる。

ペルが危篤と聞かされ、病院にかけつけたパパとママが向かうと、ぐったりしていたはずのペルは最期満身の力を振り絞ってお座りをして二人を迎えたらしい。元気なときの面影はもうどこにもないけど、ペルの目だけはあいも変わらず澄んでいたとのこと。さすが我が家の貴公子。

その姿を想像すると誇らしいと同時に余計悲しくなる。

そして最後に「願い」の気持ちが。

一体ペルは最期どんな気持ちだったのか?パパとママに看取られて安心して幸せな気分であったと信じたい。病院から一緒におうちに帰れておいしいごはんを食べる夢を抱いていてくれたと信じたい。ぺるが大好きだったおばあちゃんに天国で会えたと信じたい。そしてパパ、ママ、私、弟の心に時々でいいから遊びに来てほしい。

今はこの3つの感情が私の中をめぐりめぐっている。

ブログ背景また変えちった。

だって・・・青空背景キレイなんだけど、文字読みにくいったらありゃしない。結局もとに戻しただけなんだけど。

8月前半の思わぬハプニングによりぽかんと空いた今週はもうスケジュールみっちりです。ええ。

テーマは「自分の、自分による、自分のための時間」。

はは、こう書くとかっこよく見えるなぁ。(自己陶酔)

今日はCONRAN SHOP CAFE@パークタワーに行ってきました☆自分の好きな本を読みながら自分の大好物のキッシュを食べる(行儀悪いか・・・)。そして、食後はCONRAN SHOPに入ってCONRANの世界にどっぷり漬かる。値段はあまり見ないようにして・・・センスだけを5感(+α)で吸収してきました。(笑)

しっかし、あのパークタワーは美を追求する仕事に就いている人が多いと今日気づいた。

CONRANの他にもLOREAL PARISとか鹿島建設(ある意味美?)とか・・・。

NEOMAXっちゅうのもあった。美とは関係ないけど。ただあのNEOMAX(※)にSOULを感じる人々が自分の周りにかつていたもんで。つい興味が。

(※)NEOMAXとは、ネオジムで代表される希土類元素、鉄、ボロンを主成分とする磁石。永久磁石の中で最も強力・高性能で、小型化・高機能化が進む電子機器の重要部品として大きな役割を担っている。要は、すごいマグネットだべ。

話変わるけど、「中国で起業しよう!」っつ~本を国際プロジェクトの最中に興味本位で買ってそのまま放置するのもなんなんだから読んだ。あぁ、早めに読めばよかったな、って思いました。あれ読んですごく納得しました。もと丸紅社員が中国で独立する際に体験したこと、それを踏まえてこれから中国でビジネスする人へのアドバイスが綴られているんだ。ここで語ると長くなるから、もし中国でこれから仕事する人いたら絶対読むべし。

88日 ―え!?、それどういうことですか!???―

 前日のアドバイスをもとに我々4人はそれぞれの作業にとりかかった。Aにはプロジェクトにまだそこまで差し当たりのない作業(i.e. 我々の組織のホームページ作成)に専念することを促した。私の担当した仕事はずっと返答のないAの教授に再度会議での挨拶の件に関して依頼することであった。もちろん教授の都合は悪いとわかっていたけれど、他の人を紹介してくれると言いつつそのままになっていたから確認する必要があった。この件に関してAに何度も先生に連絡をとってもらうように頼んだが、毎回話を有耶無耶にされていたからだ。また、再確認の意で教授の名前や、研究科の専攻の名前を使用させてもらうことについても触れる必要もあった。Aは許可が下りているというが、念には念をというわけで。

 

 この後、驚愕の事実が次々と明らかになった。まず、教授からの返答だが、

「私はこの件に関して一切関わっておらず、また大学のプロジェクトとしても認めてはおらず、従っていかなる場合も私の名前及び研究科の専攻の名前を使用することは許可しません。私が協力できることはありません。そうAさんにお伝えください。」

という内容のものがきた。我々はこの返答に対し愕然としたと同時に次なる疑問を抱いた。

どうしてプロジェクトを認可しない教授が中国のX市側の高官や副市長をはじめとする人々のビザのお世話をしたのか、いや、どうやってAは教授にビザをとる手続きの判子を押させたのか・・・??Aは教授にビザのことを依頼したメールは残してあるのだが、教授の返答はメールではなく口頭だったので残っていないと言う。さらにきつく問い詰めたところ、教授が判子を押したわけではなく教授の秘書が判子を押し、それを教授が確認しているはずだという。

「それは相当ヤバイ」

そのことでもめていると、X市側から連絡が入った。

「会議の日を延長してほしい。915日にしてほしい。またそれまでに参加する日本企業は最低150集めていただきたい。」

とのこと。当たり目に祟り目である。

向こうは何がなんでもこの会議で商談を成立させたいらしく、15日にすれば集められる企業の数が増え、商談できる確率も増すというのである。

しかし、まず15日に延長したら、今発行されているビザは無効になり再度発行してもらう必要があるが、どう考えても教授の力はもう借りることはできない。それにA以外の4人のメンバーは1日以降は都合がつかず仕事ができなくなる。そうなるとAは新しく人を雇う必要があるがその選定をしている暇を考えると15日に延長しても意味がない。そして150企業というノルマは一体どこで決定されたものだろう?

その旨をX市側の秘書に伝えると、ビザに関しては向こうが昔から馴染みのある日本企業に頼むという。そして人手に関しては、我々にどうしても15日まで頑張ってほしいという。さらに150企業というノルマは以前Aが適当にソフトウェアに関わっている日本の大企業をリストアップして向こうに送り、「これらの企業を招待できるだろう」と言ったところから決まったらしい。急いでAにそのリストを見せてもらうとそこには本当に大きな企業がたくさん。N総、N○○データ、富士○・・・

私の中で何かが切れた。それはAに雇われた他の3人も一緒だった。帰り支度をし、部屋を出た瞬間、

「飲みに行こう!!!!!!!!」ってなった。

桜水産で飲んでたんだけど、あんだけ食べて一人2000円。おばちゃんの接客が妙に心に染みた。

「いいじゃん、自分の可能性を試そうよ!!どこまでやれるか!!!」

最後の方はっていうノリになった。

事態を知った知人Eは態度を変えることなく引き続き我々のバックアップをしてくれると連絡してきた。

うれしかったと同時に心が痛んだ。ベスト尽くしてるのにどうしてこうなっちゃうんだろう??

夜、もう一人相談できる人に事態を話したところ、

「自分の可能性を試すのは結構だけど、サークルのノリじゃぁ駄目!!相手は政府であり、企業だ。かけられているお金も高額だ。お金を投資しているのはあくまでも向こうなんでしょ?だったらどうgomacchapurin側があがいてもどうしようもない。結局向こうに決定権がある。そうであれば、もうこちら側の現状を包み隠さずすべて話して向こうにこのプロジェクトを続行させるかさせないか決めさせたら??」

と言われた。

確かに。その夜私はBにメッセンジャーでこのことを伝え、次の日決行することの同意を求めた。Bも同じことを考えていた。

89日 ―横領疑惑―

 

 

 私はX市に送る我々の現状と今後のプロジェクト続行の可否について問うことをまとめたメールを作成しこの日プロジェクトに参加できなかったBの代わりにCに中国語に訳してもらいX市側の秘書に送ってもらうことにした。あとは、ぼろぼろの状態の組織になってしまったものの、我々は気持ちを切り替え、プロジェクトがこのままずっと続行されることを仮定して引き続き日本企業を招待するための戦略をみんなで練っていた。Aには引き続きHP作成を促した。

 

 Cがメールの中国語訳を終え、私がもう一度送信する前にチェックを行っているとこの9日間の中でもっともショッキングな情報が入ってきた。X市側の秘書からAの携帯電話へ連絡が入った。

 「私を含め、あなたたちに横領疑惑がかけられている」

その秘書は自分の事務室に入ることも許されず、パソコンを使用することも会社の電話を使用することも許されない状態になってしまったらしいのだ。唯一使用できるのは自分の携帯電話だけ。その携帯電話でAに連絡をとってきたのだ。

 どうして我々に横領疑惑がかけられているのか、その時はわからなかった。その時の推測では、我々のプロジェクトの進展が思わしくないのを察知し、我々ではなくてちゃんとした日本企業に依頼することになったから我々が必要なくなったのではないかということだった。とにかく、X市側は全額返金を要求してきた。すぐに返金できなければ秘書の立場が悪くなるのは明らかだった。Aは早急にこの時点で残っている残金と足りない部分は中国の実家に連絡して埋め合わせてもらい、返金することを決断した。そして、我々は今まで我々がきちんと働いてきた証拠を全て集めることにした。

 

 その途中でAが私達に本当のことを話し始めた。どうやらAとこの秘書は親友であるらしく、今回のプロジェクトはその秘書がX市にAの研究内容を伝え、強くAを推薦したことから始まったらしいのだ。その秘書は長年仕事をしており、信頼も厚いことからX市はそれを信じきり正式な契約を結ぶことはなく200万円をこのプロジェクトに投資したそうだ。だからAに疑いがかかれば当然秘書の責任にもなるということだ。X市の高官・企業の人たちは二人が共謀で横領しようとしているのではないかと考えていたわけだ。

 

 証拠を揃え終わろうとしたそのころ、再びX市側から連絡が入った。プロジェクトを続行させてあげても良いというような内容だった。しかし、最終的な決断は明日出すということだった。向こうが一体何を考えているのかがますますわからなくなった。

8月10日 ―誰の責任?―

 

 決断が下されるまで自宅待機となったこの日。夕飯時になってようやく連絡が入ってきた。

「秘書の立場をかけてこのプロジェクトを続行してほしいとのこと。」

横領疑惑の次は「脅し」か…。もう恐怖というよりは笑いに近いものがこみ上げてきた。その時は出先だったので、家に帰ってから今後の件についてAなしの緊急のウェブ会議を開くことになった。私は一つ勘違いをしていたことがここでわかった。X市側が秘書を人質にしてプロジェクトを続行しろと脅してきているわけじゃなく、秘書自身が自分の名誉挽回のために自分の立場をかけて失敗したら首になる覚悟でプロジェクトを続行してくれ、と言ってきているとのことだった。安心した。命が危ないわけではなかった。150企業集めなくてもいい、35企業くらいでもいいと、値段交渉ばりのことまでしてきた。

極自然なことだけど、メンバーはもう振り回され、これ以上危険に足をつっこむことにうんざりしていた。正直、私はこの段階で既に当初の目的とあまりにもかけ離れたプロジェクトを続け、その秘書の名誉挽回のために手伝う気力は失せていた。確かに自分の可能性を試すことも考えたが、このまま今の形のプロジェクトを続行して得られることと、プロジェクトからフリーになって得られるだろうことを天秤にかけると、どうしても後者の方が重くなりはじめていた。

プロジェクトを続行するにしてもあまりにもシガラミが多くなりすぎている。横領疑惑までかけられ、情だけで続けるこのプロジェクトは国際協力とはどう考えてもいい難いし、招待する日本企業、とりわけ自分の知人を巻き込むこともしたくなかった。いずれにせよ、15日まで見届けられないのならプロジェクトの責任を負うことはできない。4人はプロジェクトを降りることを決意した。

 

それでも最後まで争点となったのは、

「人を見捨てることができるのか?(主にAと秘書)」

ということ。まず秘書に関しては、

「彼女は確かに今首になるリスクをしょわされている。だけど、痛手の度合いこそ違うかもしれないけれどうちらもこのプロジェクトに参加したことによって期待から大きくかけ離れた結果を目の当たりにしなければばらないという痛手を負った。彼女は今自分の立場かけている。でも自分の立場をいい方向にもっていこうとしているのはみんな一緒。だから彼女は続けるし、私達は降りる」

という結論に至り、情をわりきることにした。

Aに関してはさらにわかったことがあった。そもそものプロジェクト経緯を秘書から知ることができたのだ。Aが中国の開発区オフィスに直接コンタクトをとり、自分は研究の一環で国際協力のための組織をたちあげたからこの組織を利用してくれるところを捜していると言ったらしいのだ。もちろん、その時点でその組織とは名ばかりで、何も中身がなかったのだ。いみじくも、以前このプロジェクトをスタートさせたばかりの時にAが私達に

「これは私にとってビッグチャンスなんですよ」

と言っていたのを思い出した。

これを受けて開発区の一つであるX市でちょうどオフショア関係の仕事をしていたAの知り合いであるその秘書が引き受けることになったのだ。あとはA本人が言っていたこととつながる。この事実を知った我々は

「依頼を受けたというよりは準備不足の状態で自分からのりこんで行った」

と判断し、Aに関しても情をわりきることにした。

Aが圧倒的に悪者に見えるかもしれないが、私はそれは違うと思う。今回、誰が悪かったか?と考えると誰も完全に非難できる人はいないのだ。

Aはただ純粋に自分の研究をアピールし、認めてもらいたかったのだ。同じ研究者としてこの気持ちは良くわかる。ただ、あまりにも見切り発車すぎた。組織としての概念は決して悪くないし、一緒に仕事をしていて彼のこの組織発展にかける情熱は私も見習うべきところだと思ったくらいだ。

X市側はただ純粋に自分たちの都市の発展を願い、少ない資金でも彼らの夢を実現してくれる組織に願いを託したのだ。ただ、Aの研究も発表したいという目的X市の商談ができる日本企業をできるだけをただ集めたいという相補の目的を最初からお互いにクリアにせず目的が歪んだ状態でプロジェクトを進めようとしたことが結果的に良くなかったのだ。

そして私達はただそれぞれのプロジェクトに対する思いを実現するために協力したかっただけなのだ。ただ、得られるであろう実績や報酬に目がくらんで、根本的な問題点をもっと早くみつけることができなかったのだ。

8月11日 ―はかなく散った国際協力プロジェクト、芽生えた信念―

 

 Bが我々4人の決意とその理由をX市側の秘書に送った。返信は数時間のうちにきた。

中国語と一緒に日本語変換ソフトを使って翻訳した文を送ってきた。

「みなさんの心を傷つけ、ご迷惑をおかけしてごめんなさい。皆と協力できなくなっても私はプロジェクトを続けていこうと思います。今まで皆さんからご支援いただいたこと心より感謝いたします。X市にいらした際には是非お声をおかけください。私が皆様をご案内いたします。」

 

 なんとも心がしめつけられるメールだった。一度決意した心が揺らぐ。だが、冷静に受け止めなくては。

こんな形であっけなく終わってしまった国際協力プロジェクトだが、色んな経験が凝縮されていたように思える。敢えて言うのであれば、無理して我々の手で会議を開き、失敗し、お互いの関係がこじれるくらいだったらむしろ我々の手でプロジェクトを潰してしまって良かったのかもしれない。ある意味国際協力だ。(笑)

ただ、私自身悔いが残らないわけではない。結局X市の人々の役にたってあげることができなかったのだ。今回の経験を通して私の中で新しい信念が芽生えた。必ず将来、国際協力の仕事に就き、今度は絶対に協力先の願いを叶えるという信念である。それが私の使命だと考える。

国際協力プロジェクトがはじまり10日ちょっと。実は今日この国際協力プロジェクトの終止符が打たれた。思い返せばこの10日間、本当に急展開の毎日であった。お金を払って経験しようと思ってもそう簡単にはできない経験をした。一生忘れられない、いや忘れたくない自分の心に刻むべき経験。ここに記しておく。

7月初旬に研究科の掲示板に1枚の募集広告が掲載されていた。

「中国と日本の国際協力者募集」

広告に書かれている仕事内容の詳細を見ると

「国際協力プロジェクトのための研究・調査。詳しくはA(仮称)まで」

と書かれていた。ちょうど自分の目指している、将来やりたいことを実現するためには非常に良い経験になると思った私は迷わずAと連絡をとった。

おおまかな作業内容は教えてもらったが、さらなる詳細は選考に通ってから他の選考通過者たちと合わせ、顔合わせのときに伝えるとのことだった。選考は履歴書選考。

めでたく選考に通過し、プロジェクトメンバーとの初顔合わせの日を迎えたのが722日。

プロジェクトメンバーは4人。それぞれがそれぞれの思いを胸にこのプロジェクトに期待を寄せて集まった。このときAを除く4人は誰一人としてこれから起こるドラマティック且つ惨たんたる展開を予想だにしなかった。

722日 ―顔合わせ―

プロジェクトメンバーのプロフィールを紹介すると(すべて仮称)、BCDそして私。BA同様中国人。現在でも変わらない第一印象は「人生今まで出会った中で日本語が一番上手で責任感のある子」。残るC,D,私は日本人。Cは「中国語が抜群にできる日本人」文系故、言葉を扱う才能はプロジェクトメンバーの中で一番長けていた。Dは「神童。」私と同じ理系。あの落ち着いた雰囲気と論理的思考能力の高さは私にもわけてほしいと思った。

プロジェクトの詳細について事前にABは話しあっていたらしく、この日はAからではなくBから説明されることになった。

プロジェクトの内容:

.中国のX市(仮称)と日本とのソフトウェアオフショア開発についてその現状・問題点・方向性を調査研究する。その上でX市の魅力を日本のIT企業にアピールし、二国間のIT分野の協力を強化していく。

.91日に国際IT協力会議を開催する。そのために参加日本企業をDMや電話、直接訪問やコネを通して募集し同時に日本から会議の講演者を募集する。

3.その他雑務(X市が作成したパンフレット和訳作業、会場セットアップ等)

91日までのプロジェクトスケジュールもおおまかであるがロードマップができており、本格的にスタートする8月に入る前に3番の雑務を済ませる予定であった。また、A曰くこれは中国のX市が我々の大学に依頼してきたプロジェクトであり、プロジェクト遂行にあたって投資された額はメンバーの給料含め、日本円で200万円とのことであった。日本では大した値段ではなくとも中国では大金だ。Aの研究室の教授の認可も降りており、教授の名前を使うことも可能だということだった。

ともあれ、プロジェクトメンバー全員はすぐにうちとけ、これから始まるチャレンジにわくわくした1日であった。

727日 ―パンフレット作成その1―

 

顔合わせから数日たった。私はこの間自分の研究を専攻の学生の前で発表するというイベントがあったため、プロジェクトに関しては何もしていなかった。この日になってようやく私はX市が作成したパンフレットの和訳作業をしはじめた。和訳と言っても私は中国語に関しては皆無なのでBCがすでに和訳したものをみんなと一緒にチェックする作業だ。ちなみにこの日リーダーのAはオフショア開発関連のセミナーに出席していたため、我々4人だけで作業を行っていた。21時過ぎまでかかっただろうか・・・一応10時―18時がコアタイムだったので初っ端から飛ばした感があったが、後ほど研究・調査に時間を費やしたいためみんな頑張った。

81&2日 ―パンフレット作成その2―

 

結局メンバーの都合がつかず、パンフレット和訳作業は8月に持ち込まれてしまった。それに、X市のだけではなく、自分たちの組織の紹介を含め91日に開催する会議の詳細のパンフレットも作製しなくてはならず、メンバー全員に焦燥感が現れ始めた。どう考えても、最低でもお盆直後には会議に招待したい日本のIT関連企業の手元にこのパンフレットが渡っていなければならない。つまり印刷業者に頼んで完成するまでの時間も考え、とにかく急がなくてはなくてはならない。さらには、それと関連して会議のプログラム詳細を決めるために具体的に中国のX市側からは誰がどれくらい講演するのか?(X市からは副市長、省の科学技術庁高官及びオフショア受け入れ企業の人たちが講演することは決まっていた)、日本側からは誰に挨拶や講演をしてもらうのか?、我々の研究・調査発表はいつやるのか?、懇親会はやるのか?等々も決める必要があった。まずは優先順位の高いことから確実にやろう、ということになりこの2日間は

     X市側のパンフレット翻訳作業や入力作業を終わらせること

     講演をしてくれそうな人に依頼のメールや電話すること

     うちらの組織側のパンフレット骨組みを作製すること

に専念した。会議での開会の挨拶に関しては、我々の大学が依頼を受けたということもあるので、Aの教授かもしくはAがぞくする専攻の専攻長に頼むのがベストだと考え、Aに直接先生にコンタクトをとってもらった。しかし残念ながらAの教授は1日は都合が悪いらしく挨拶ができないとのことだった。それでもAの教授は自分の代わりになる人を探すからしばらく待ってほしいとAに伝えたらしい。

8月3日 ―パンフレット作成その3とすれ違いの始まり―

 

なんとかX市側のパンフレットが完成に近づき、こちらの組織側のパンフレットの作成目処もたったころ、問題が生じた。今思えば我々にとってこのプロジェクトの歯車が狂い始めたのはこの時だったかもしれない。それはX市側のパンフレットのサイズをイラストレーター(描画ソフト)でチェックしていたときのことである。

「あれ・・・?これ全ページ少しずつ大きさが変わってるんだけど。パンフレットってA4サイズで作るんだよね!?」

急遽AX市側と連絡を取ったところ、向こうはこのパンフレットに工夫を凝らしたとのこと。しかし、向こうのやり方だと我々が印刷を頼もうとしたところでは対応できない。他のKINKOSみたいなところに依頼すればできなくはないだろうけど、莫大な料金がかかってしまうし時間がかかると判断した。その旨を向こうに伝えたところ結局向こうの印刷業者に頼むことで話はおさまった。だが、そもそもなんでこの事実をもっと早く伝えてくれなかったのか?あと少し気づくのが遅かったらこちら側で印刷を頼んでおり、面倒なことになっていたことは言うまでもない。

 

今まではAだけにX市側との連絡をとってもらっており、我々は向こうの要望をAを通して聞いていた。Aは沢山やることがあり、細かいところまで気が回らないだろうと判断した我々4人はAの負担を減らすためにも、A以外にもBCが直接X市側と連絡を取ることを決定した。そこでBAに向こうの連絡先を聞いたが、Aは最初教えることを躊躇していた。

 

ここで一つ明らかになったことがあった。X市側も直接副市長や高官がこちらに連絡をしているわけではなく、一人の秘書を通してこちらに連絡をしていることがわかった。

8月4日 ―@国際フォーラム(勉強、宣伝活動そして疑問浮上)―

 

この日はプロジェクトメンバーでちょうど国際フォーラムで開催されていた「アウトソーシング2006」というフォーラムに行ってきた。ここでの目的は2つ。

     オフショア開発を含むあらゆるアウトソーシングの勉強

     フォーラム参加企業に我々の会議の宣伝

前日に宣伝用のビラや名刺を用意して行った。中国にオフショア開発をしている企業はあまりなかった。どちらかというと、日本国内でアウトソーシングを受託している企業が多かった。我々の活動に興味を示してくれるところもあったけど、

中国ですか、言葉・文化・信用の面から言うとうちで進出することはないですね」

とか、

「上海や大連ならまだしも、X市ですか…インフラが整っているなら考えるけど…」

とか

「判断を伴う業務のアウトソーシングを行っているんで、いわゆるオフショア開発とはまた違ってきますよね?」

という意見が大多数。

また、我々はIBMの人の講演を聞くチャンスがあった。おそらくもとPwCのコンサルタントだと思われる彼のプレゼンはまさに目からウロコ。このアウトソーシング業界の全貌が彼のプレゼンを通してわかった。生まれて初めて1時間のプレゼンを寝ずに聞けた自分にも感動でした。いやぁ、自分も将来はあぁいう説得力のあるプレゼンテーターになりたいと思いながら

…はて…

これから1ヶ月間でド素人のうちらがその発表者みたいに調査・研究し解決策を導けるのだろうか??たとえド素人なりの解決策を導けて発表しようとしたところで会議に招待する日本企業は興味を示すだろうか…?また、X市側もそれなりに調査・研究した上で日本企業を誘致しようとしているのだから彼らの導いた解決策と我々の導く解決策がずれてたらおかしな話だ…。しかもX市側が発表する内容もすべて我々が和訳・チェックするとなると相当時間がない。日本企業を招待するための宣伝活動の時間も危うい…となるとX市側は我々に一体何をもとめて依頼してきたのだろう?????

 

 

こういった疑問をメンバーに打ち明けたところ、その辺をX市側にはっきりしてもらうために週末Bに連絡をとってもらうことになった。

この日はフォーラム後、Bが自分の知人に91日の講演を依頼するために出かけていった。メンバー全員少なくとも雇われた4人は困惑しはじめていた。

8月7日 ―救世主現れる!?―

 この日私は自分のうちのエアコン修理が入ったため、プロジェクトは休んだ。でも、いずれにせよ夕方から私も自分なりの知人を伝って今回の会議に日本IT関連企業を招待するための協力をお願いしようとしていた。が…Cからうちに電話がうちにかかってきた。

gomacchapurin!!大変だよぅ、収拾がつかない…から電話でもいいから話し合いに参加して!」

とのこと。話を聞くと、フォーラムの日にBは知人に講演依頼をしたが、断られていた。その理由が争点となっていた。

「我々組織の存在意義は??」

もちろん、この件に関してBは週末向こうにはっきりしてもらうためメールで連絡をとっているのだが、この時点でまだ返答がなかった。しかし残された時間のことを考えると我々の調査・研究云々の話はもう考えられない。しかもコネを使った講演依頼がこのような結果になってしまった以上、全くの他人に講演依頼して引き受けてくれる可能性は極めて低い。そうなると我々がしなければならない最低限のことはできるだけ多くの日本企業を集めること。これを受けてAはパニック状態になり始め、今から手当たり次第日本のIT関連企業に電話で連絡をとり会議の宣伝をし、招待せよと言う。手当たり次第やればいいというものではない。連絡する企業だって向こうのニーズと我々の提供するものがマッチしていなければ断るのは目に見えている。そのマッチしてそうな企業のリストアップでさえできていないのである。

誰が考えてもこの向こう見ずなやり方には賛成しかねた。

気まずい感じの雰囲気が流れ、私もこれ以上電話で説得するのも疲れ、また、これ以上言ったところでAの熱は冷めないと思い、今日の話し合いの打ち切りを打診した。そして明日みんなが冷静さを再びとりもどした上で議論を再会することになった。

 

そのように話し合いを打ち切った理由はもう一つある。当初一人で自分の知人に相談しようと思っていたがA以外とのメッセンジャー・メールのやりとりでA以外のメンバーにも私の知人に会って相談してもらおうと電話での話し合いの最中決めた。仕事の途中でA以外のみんなが抜け出すと怪しまれると思ったから。なぜAを誘わなかったか?直感だけど、4人ともAに疑問を抱きはじめていたからである。

 

知人E(仮称)は現在某大企業に勤めておりまさにオフショア開発の最先端にいると言っても過言ではない。そんな彼に企業側からの視点で我々が今後企業を招待するために宣伝するにあたり、どのように駒を進めたら良いかアドバイスをもらった。さらには彼も自分の上司や彼の知人で同じくオフショア開発に関連していろうな人たちと相談をして会議に参加できるよう説得を試みたり、また我々がどう宣伝をしたら良いか引き続きメールのやりとりでアドバイスをもらえることになった。

やっと一つ希望の光が見えてきた夜。消えかけた期待がまた再び心の中に戻ってきた

TO BE CONTINUED

今日から1ヵ月半研究室を離れて国際協力プロジェクトの研究員として活動します。

2月くらいから自分の将来を模索し続け、最近になってやっと自分の行く方向がはっきり見えてきた!

方向が決まるとこんなにも視界がクリアになるとは思ってなかったよ。何が今の自分に足りなくて何を補うべきか、何が自分の中で得意で磨くべきものか、残された学生生活の中で何をしておくべきか、等々。

その「何をしておくべきか」の一つが実際に自分の将来やりたい仕事の経験をインターンみたいな形で積んでおくこと。見つからないかなぁ~って色んなところ探してたら案外近くにチャンスはあった。うちの大学とある国が共同で国際協力プロジェクトを進めることになってそのプロジェクトメンバーの募集を行っていたんだ。「これ絶対やりたい!!」って思いが通じたのかめでたく採用されました。

先生の許可得るまでかなりびびってたけど、先生は背中を押してくれたからすごくうれしかった。心置きなくこのプロジェクトに注力できます。

メンバーは5人で小さいグループだけどみんなで大きな野望抱いてます(笑)

本部は本キャン近く(弟君の通っていた高校の超近くだよ!)の4畳半の部屋でメンバーの熱い夏は今日スタートを迎えました。

今後に乞うご期待!

一応今日からオフィシャルな夏休み♪よっしゃ~っ好きなこといっぱいやろ。

こないだMixiに知らない人からメッセージが入ってた。

どうやらNJの小学校で時期的に一緒だったっぽい。残念ながら学年違ったみたいだけど。知っている人の名前あげてっても全然カスラない。ま、仕方なし!って思ってたら

「イ○マタ先生が聞いたら喜ぶね~」

っていうメッセージが来た。全身にプラズマ走ったよ~(笑)

私は自分の英語の原点を作ってくれたって言える存在をすっかり忘れていたのだ。

イ○マタ先生。English as a Second Language : ESLのクラスの先生。今でも記憶にある授業は年号が昭和から平成へ変わったときに、平成元年と書かれた紙をみんなに見せて解説してた授業。どうして英語関連の記憶じゃないんだろ??(笑)

実はイ○マタ先生すごく大好きだったけど、ESLの授業は大嫌いだった。普通の現地校の授業中に呼び出されてESLを受講しなきゃならないから。普通授業に遅れをとることになってそれをリカバーするのにものすごく苦労した記憶が。だから一日でも早くESL卒業したくてたまらなかった。今となっちゃぁ色んな人から

「いいねぇ、帰国子女。英語できてさぁ・・・」

って言われるけど、最初からできてたわけじゃない。幼いなりに一応苦労はしたのだ。

なぁんて言えるほど今英語の能力ないけどさ(笑)

ところでイ○マタ先生は今どこで何をしているんだろう?また再会したい先生の一人であります。

 「gomacchapurinさんはブログとか書いてたりしてないんですかぁ?」

後輩に最近聞かれた。

そう言えば最近全く書かなくなったなぁ、なんて思ってた。

別に書くことがないわけじゃないけど、特に書きたくなかったから。

「最近は書いてないよ、昔結構頑張ってたんだけどねぇ」

って言ったら、

「それって毎日が充実してる証拠ですよ。だいたいがブログつける人の大半は認知欲求を満たすために書いてるんですから。」

ん?認知欲求??なんじゃそりゃ?

簡単に言うと「ねぇねぇ!私を見て!!私に気づいて!!!私を認めて!!!!私って本当はこんなにすごいんだよう!!!!!」ってことらしい。

なんとなく当たっているような。確かに、見られてるから続くしろものだもん。普通に日記だったら続かないだろうなぁ。

ということは最近の私は認知欲求が満たされていたのか・・・?

弟よ、君は私のところに何時頃来るのかね?そしてその日の予定を早く教えてくれ。

てゆうかいつ一時帰国するのか、いつ戻っていくのか至急連絡メールくれ。

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